里を出て、火の国の国境ももうすぐ越えようというところ。
小さな農村に辿り着いた。
家屋は全部で20位あるだろうか。
小さな商店がぽつんと一つ。
どの家にも庭先には畑があり、半自給自足の生活をしているようだ。
鶏などが放し飼いにされている。
のどかな村だ。
その村の小高い丘の上に向かう。
小さな平屋の家があり、その家の台所からは細い煙がゆっくりと立ち昇っていて家人がいる事が知れる。
早鐘のように心音が頭の中で鳴り響く。
一歩、一歩と、その家に近付いていく。
私の緊張は際限なく高まる。
玄関のすりガラスがはめられた戸の向こうに人影が動き、私はギクリと身を硬くした。
私の内心の煩悶を知ってか知らずか、戸はカラカラと軽やかに開いた。
「いらっしゃい、サクラ」
その低い懐かしい声を聞いて、私の緊張はふつりと途切れた。
全身が弛緩してしまい、その場に崩れ落ちてしまうかと思った。
私の前には酷く顔の整った黒髪の男の人がいた。
その右目は昔と変わらずに透けるような薄い青で。
左目は硬く閉ざされ、封印のように上下に傷が走っている。
その瞼の下に今はもう燃えるような赤い瞳は無い。
「カカシ先生・・・・」
「疲れたでしょ。あがって」
六年ぶりの再会だというのに、かつての上官は昨日も会ったというように飄々としている。
「もう日も暮れるから、今日は泊まっていきなさい」
何とか私は頷いた。
聞きたい事が洪水のように頭の中に溢れかえり、返って私は何一つ質問を口に出来なかった。
狭いながらも居心地のいい家にあがると縁側にはもう一人、男の人がゆったりと腰を下ろし外を眺めている。
その人は黒髪を天辺に結い上げた昔の姿のままだった。
私は大きく深呼吸してからゆっくりとその人に近付いた。
縁側からは村が一望できた。
「イルカ先生、いい眺めね」
イルカ先生の隣に私は腰掛けた。
「ええと・・・、どちらさま?」
よほどの事が無い限り驚かないと心に決めていたのに、私は軽く息を飲んでしまった。
イルカ先生は私が名乗るのを待っているのか、静かにこちらを見つめている。
「イルカ、サクラが来てくれたんだよ」
私を挟むようにしてカカシ先生も縁側に腰掛けた。
「サクラ・・・・。あなたと同じ名前の桃色の髪をした女の子を知っています。元気かな・・・・」
イルカ先生の瞳が優しく撓む。
その女の子と今の私がイルカ先生の中では一致しない。
イルカ先生に何があったのだろう。
言葉を失った私を気遣うようにカカシ先生がとつとつと話し始めた。
「イルカはね、心が・・・壊れてしまったんだよ」
「・・・いつから」
「あの時には、もう」
あの時。私が二人に最後に会った時だ。
「狂気と正気の狭間でね、苦しむ姿を見ていられなかった。俺はこの人の辛い記憶を取り上げたんだ」
イルカ先生は私達の会話には何の関心も示さずに夕暮れの村を見下ろしている。
「イルカは心の平安と引き換えに記憶障害を抱えるようになった。ある日は幼いアカデミーの生徒に戻っているし、ある日は六年前のアカデミーの教師になっている。今日は割と、六年前のイルカに近いんじゃないかな・・・。此処での暮らしは、イルカの記憶の中に蓄積される事は無い」
「イルカ先生の記憶はあれから増えていないの?」
「うん」
「カカシ先生は、辛くないの?」
聞いたあと、すぐ後悔した。
でもカカシ先生はどんな些細な質問でも真剣に答えてくれた昔のままの表情で、私の愚問に真摯に一言、言葉を返してくれた。
「俺は大丈夫」
辛くないはずが無い。
でも、カカシ先生はきっと決めたのだ。
イルカ先生のために決して自分は揺らいだりはしないと。
「イルカ、冷えてきたね。中に入って夕飯にしよう」
「ええ」
やり取りは自然だが、イルカ先生がカカシ先生をきちんと認識できているのかは分からない。
それでも相手をどう捉えていようがイルカ先生はカカシ先生を全面的に信頼しているようだ。


「どうぞ」
イルカ先生から差し出された椀を私は素直に受け取る。
きっと庭先で取れたのであろう野菜が食卓に彩を添えている。
なんて、優しい味がするんだろう。
「おいしい」
口に含むたびに身体に染み入るようだった。
イルカ先生はニコリと微笑むと安心したように食事を始めた。
記憶障害があるといっても普段の生活には何の支障も無いのだそうだ。
その年齢相応の常識をイルカ先生はいつも持ち合わせていて、生活全てをカカシ先生が手助けするわけではない。
目の前のイルカ先生は私の事を思い出せないことを除いては特に不自然なところの無い、普通の男の人だった。
カカシ先生もごく普通に私を交えての食事の時間を楽しんでいるようだ。
六年ぶりの再会だったけれど、昔話をするでもなく言葉少なに優しい時間は過ぎていく。

二人が居なくなったのは三代目がまだ健在の頃だから三代目から五代目にその秘密は引き継がれたのだ。
忍としての生を投げ捨てて二人は今の生活を手に入れた。
何があったのかは分からないけれど、それに火影さまが手を貸すなどよほどの事があったにちがいない。
五代目はその秘密に触れさせてくれた。
二人は、生きていた。
もうそれだけで充分だ。


「女の子なのに、俺達と一緒の部屋でごめんね」
居心地が良いけれど小さな平屋は、居間兼台所の一間と寝室の合わせて二間しかなかった。
一人暮らしでちょうどいいくらいだと思う。
元上忍のカカシ先生の暮らしにしたらつつましすぎる。
けれど、二人らしいと思う。
イルカ先生を真ん中にして、布団を三つ並べて私達は横になった。
「髪の毛、染めたの?」
私はカカシ先生に気になっていたことを聞いてみた。
「ああ・・・俺は死人だからね。地毛だと目立ってしょうがないし」
光を反射してきらきら光る銀髪が自分達の前方に見えているととても心強かった。
私達は本当にカカシ先生に頼りきっていた。
突然姿を消してしまうなんて考えたことも無かった。
「・・・私、ずっと謝りたかったの。あの時、先生を責めるような事を言ってしまった。二人の事は二人にしか分からないのに」
「ん・・・気にしてないよ」
私達の間に挟まれたイルカ先生は眠ってしまったのか、物音一つ立てなかった。
「イルカ先生の傷は・・・」
「・・・・イルカに請われて俺がやったこともあったけど。最後には、自分を傷つけるイルカを止めるのに俺は必死だったよ」
私は相槌すら打てなかった。
イルカ先生が自らを傷つけるまでどうして追い詰められたのか、その原因を聞く事はやっぱり憚られた。
「イルカは、最後までお前達を、子供達を守るべき存在でありたかったんだよ。それだけは、分かってあげて」
身を削ってまでもイルカ先生は自分達の事を考えてくれたのだ。
今思い出されるのはアカデミーを卒業する前も、卒業した後も、辺りを明るく照らすような笑顔で私達を受け入れてくれたイルカ先生だけだ。
「・・・わかったわ」
嗚咽をこらえて、それだけ言うのがやっとだった。
「イルカは精神を病んだ自分の姿をお前達に知られたくないと、正気に戻る僅かな時間にいつも命を絶とうとした。俺は、どうしてもこの人に生きていて欲しかった。だから痛みも苦しみも無い世界に身勝手に攫ってきてしまった。結果として、お前達を捨てるような形になってしまったけどね・・・。今イルカを生かしているのは俺のエゴだ・・・・」
これほどに人は、誰かを強く想う事が出来るのか。
私はただただ、カカシ先生の言葉に圧倒される。
流れる涙を抑えようと私は顔を両手で覆った。
その時フワリと頭を暖かい熱が包んだ。
「どうした?眠れないのか」
私の頭を暖かい大きな手が何度も撫でる。
昔と変わらない、大好きなイルカ先生の手だ。
「怖い夢でも見たか?」
隣に目を向けると、イルカ先生が私の方に身を乗り出して心配そうにこちらを見ている。
「・・・イルカ先生なの?」
信じられなかった。
昔のまま何一つ変わらないイルカ先生がそこにいた。
「お前は頭が良くて、大人びていて、なかなか俺に甘えてこなかったなあ。でも、辛い事があったら何でも言いなさい。急いで大人になる事はないんだ・・・」
「イルカ先生・・・!」
私はこみ上げる衝動のままにイルカ先生の胸に飛び込んだ。
イルカ先生の胸は、昔と変わらず大きくて、すっぽりと私を包み込んでくれた。
「今夜は先生が一緒に寝てやるから。安心して眠りなさい」
「うん、うん・・・」
イルカ先生の向こうを窺うとカカシ先生は私達に背を向けて寝ていた。
今夜だけはイルカ先生を私に貸してくれるのだろう。
六年分の後悔と悲しみが少しずつ溶けて薄れていく。
イルカ先生の心音を聞きながら私は深い眠りについた。



翌朝目が覚めて私が逆にイルカ先生を胸に抱く形になっていたので驚いた。
「あ・・・、サクラごめんね」
私が小さく声を上げると、気付いたカカシ先生が慌ててイルカ先生を私から引き離した。
「イルカ、イルカ、お早う」
うん、と唸りながらイルカ先生が目を擦った。
「イルカ、今いくつ?」
「・・・みっつ」
「みっつじゃあ、アカデミーもまだ行けないね・・・。今日は俺と家で留守番していようね」
「うんん・・・」
まだ目が覚めきらないイルカ先生をカカシ先生はそっと抱きしめた。
あやすようにカカシ先生はイルカ先生の背中を何度も撫でる。
イルカ先生はカカシ先生にすっかり身体を預けてクルリと手足を折りたたみ丸くなってしまった。
私は黙って二人を見つめていた。
「サクラ、良かったね。アカデミーのイルカ先生なんて、俺も久しぶりに会ったよ」
昨夜のイルカ先生は今は跡形も無く消えてしまっている。
カカシ先生の碧眼は涙で潤んでいた。
「お前が泣いてたから、思い出しちゃったんだろうね・・・・」
カカシ先生の腕に力がこもる。
イルカ先生はカカシ先生の腕の中で心地よい眠りの中に再び落ちていった。
何歳のイルカ先生でも、カカシ先生の隣に居るイルカ先生は安心しきった幸せそうな顔をしている。
「・・・イルカ先生は、幸せなのね」
「だといいけどね」
カカシ先生の目から一粒涙が零れた。
「・・・私、誰にも言わないわ」
二人を前に言葉は自然とついて出た。
誰にも言わない。
ナルトにも、サスケ君にも。
二人の記憶の中には強くて優しかったイルカ先生だけが残ればいい。
それがイルカ先生の願いでもあったのだから。
「ありがとう」
カカシ先生は泣き笑いの表情を見せた。





薬をカカシ先生に預けて私は身支度を整えた。
玄関で二人に別れを告げる。
穏やかな笑みを浮かべるカカシ先生と、その隣にはカカシ先生の手を握って隣に立つイルカ先生。
イルカ先生はこの世に頼れる者はカカシ先生しか居ないとばかりに必死にカカシ先生の手を握り締めている。
朝食の間中、イルカ先生はカカシ先生に自分の両親の所在を尋ねていた。
今は任務に行っているのだとカカシ先生は根気強くイルカ先生に話して聞かせていた。
今朝のやり取りも明日にはイルカ先生の記憶からは綺麗になくなってしまう。
そして過去に過ごしたある一日をまたイルカ先生はやり直すのだ。
イルカ先生と生きていくと決めたカカシ先生の覚悟を思うと、やはり私はその想いの強さに圧倒され、言葉を無くすばかりだった。

「はい、イルカ先生」
イルカ先生に私はポーチからキャンディを一つ取り出して目の前に差し出した。
躊躇うようにイルカ先生はカカシ先生に視線を送る。
カカシ先生が優しく微笑みながらコクリと頷くと、やっと安心したようにイルカ先生はキャンディを受け取った。
「ありがとう」
イルカ先生はお日様のような笑顔を見せた。
昔のまま変わらない、アカデミーのイルカ先生の笑顔だった。
「カカシ先生、元気で・・・・」
「サクラも」

もう、二人に会うことは無い。
二人に残されたこの場所は、あまりに小さく、儚く。
人に知れればたちまちに跡形も無く壊されてしまうだろうから。








里に帰ったらナルトに会いにいこう。
来年の二人の命日にまた慰霊碑で会う約束をするのだ。


高い丘を覆うように秋桜が咲き乱れていた。
来年も、その次の年も咲き続けてくれればいい。
そしてどうか、この秋桜たちがこの先ずっと二人を見守ってくれますように。





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